新潟市のお米

新潟市は、日本でも有数の米どころとして知られ、そのお米づくりの歴史は古くから続いています。新潟市の豊かな土地と水源は、お米づくりに理想的な条件を提供し、地域の生産者はその恵みを最大限に活かしてきました。
江戸時代、新潟市の地域は、信濃川や阿賀野川などの豊富な河川と肥沃な土壌を持つ農地として注目されました。この時代から、お米づくりは地域の経済と文化の中心として重要な役割を果たしていました。河川の氾濫や水害に対する対策も、この時期に生産者たちによって工夫され、農地の保全と安定した生産に寄与しました。
明治時代には、近代化の進展とともに、新潟市のお米づくりも技術的な革新を迎えました。機械化や農業技術の向上により、生産効率が高まりました。同時に、品種改良の試みも進められ、より美味しいお米が生産されるようになりました。
特に、1960年代に開発された「コシヒカリ」は、新潟市のお米づくりの歴史を象徴する存在です。コシヒカリは、その優れた食味と耐病性により、新潟だけでなく全国で人気を博しました。この成功は、新潟市が日本の代表的な米どころとしての地位を確立する一因となりました。

水害と西蒲原(にしかんばら)地域

越後平野の西に位置している西蒲原は、およそ千年前まで、ほとんどが海で広大な干潟でした。信濃川が長い年月をかけて山から土砂を運び、少しずつできた大地が今の西蒲原です。
当時の農民は、わずかに盛り上がった土地に家を建て、腰まで水につかりながら稲を植えたほど低い土地で農業を営んでいました。

水害と西蒲原の農民のたたかい

客土(きゃくど)

水の中の田んぼを少しでも高くするため、全身泥まみれになりながら川底の土をかき集め、舟に乗せて田んぼに運びました。
そういう営みはつい百年前まで続いていました。

三年一作

今ではお米の生産といえば一番に名前が出るほどの西蒲原ですが、江戸時代には3年に1回米がとれたらよいとさえ言われていました。
大雨がふると、低い土地と信濃川からの大水のため頻繁に洪水がおこり、家も田んぼも家畜も全部が流されてしまいました。その回数は、江戸時代から戦後まで(昭和20年)の350年間に約100回にも及び、これは3年に1回の割合にも及びます。

新川開削

洪水問題を解決するため、信濃川に流れる水の量を減らし、下流に集まる水や潟(鎧潟・田潟・大潟)の水を日本海に流す「新川開削」を行いました。
新川開削とは、今から約200年前、江戸時代に多くの庄屋たちが中心となり、総人数100万人もの農民が人の力だけで新川を西川の底を潜らせ日本海へ流す10年にも及ぶ大工事です。その努力の結晶として、現在では洪水の被害が少なくなりました。

西蒲原開拓

明治時代には、蒸気機関を利用した排水ポンプの登場により、自然や人力に頼らない機械的な排水が可能となりました。そして、戦後に入ると、地域全体の用水から排水までを制御する近代的な水利システムが導入され、排水路や大規模な排水施設が整備されました。多くの人々の苦労と努力の結果、西蒲原は200年にわたる変遷を経て、日本有数の穀倉地帯へと変貌しました。

新潟市の生産者は
長い歴史の中でさまざまな困難や
課題を乗り越えてきました。

気候変動と天候の変動

新潟市は、日本海側に位置するため、冬季の降雪量が多い地域です。また、台風や大雨などの自然災害にも直面してきました。生産者たちは、厳しい気候条件に対応するため、稲作のスケジュールや栽培技術を工夫し、安定した生産を確保する努力を続けてきました。

病害虫の発生

農業において、病害虫は作物の生育に大きな影響を与える要因です。新潟市の生産者は、農薬の適切な使用や、栽培方法の改良などで病害虫の発生を抑える対策を実践してきました。また、品種改良を通じて、病害に強いお米を育てることにも成功しました。

農業の近代化と機械化

農業の近代化が進む中で、生産者たちは新しい技術や機械を導入する必要がありました。これには、従来の手作業から機械による作業への転換や、効率的な農業システムの構築などが含まれます。新潟市の生産者は、これらの変化に柔軟に対応し、現代的な農業を実現しています。

高齢化と後継者不足

日本の農業全体で問題となっているのが、生産者の高齢化と後継者不足です。新潟市でも、生産者の平均年齢が上昇し、若い世代の農業従事者が減少しています。この課題に対処するため、新潟市の生産者は、若い世代への技術継承や農業の魅力を伝える活動に取り組んでいます。